銀座もとじ
GINZA MOTOJI 嫌いだった着物が、
人生を変えた ──
布と人の物語
店主 泉二 啓太 プロフィール
泉二啓太(もとじけいた)は1984年東京都生まれ。ロンドンの大学でファッションを学び、パリで1年間を過ごした後、2009年に「銀座もとじ」入社。2022年より代表取締役社長。オリジナルブランドの企画・開発を手掛け、「着物をワードローブの一つの選択肢に」という理念で伝統と革新を融合。産地や作家との協働を重ね、文化の継承と発展を目指す。著書に『人生を豊かにする あたらしい着物』(朝日新聞出版)がある。
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銀座から世界へ。
「日本の美」を伝える使命1979年創業の「銀座もとじ」は、着物という伝統文化を、今という時代に生きる人々の感性へとつなぐ存在だ。創業者・泉二弘明氏は、かつてマラソン選手として将来を嘱望されながら、怪我によって夢を断たれた。
だが、その挫折こそが、彼を新たな道──日本の手仕事を未来に託す仕事──へと導いた。
「父はもともと奄美大島の出身なんです。自分のルーツである産地を守り、発展させたいという思いが強くあった」と語るのは、二代目の泉二啓太氏。
奄美の自然と共に育まれてきた“本場大島紬”は、気が遠くなるほどの工程と手仕事の積み重ねで成り立っている。泉二氏の父は、その織物を未来に残すために、単なる販売ではなく“文化の橋渡し”を志したのだ。
銀座という地を選んだ理由も明快だった。
「日本の中心から、日本の美を世界に発信したかったからです。」
銀座は、伝統と革新が交差する特別な場所。そこから生まれる“現代の着物文化”を通して、泉二氏は日本人の心に宿る美意識を、次の世代、そして海外の人々へと伝えていこうとしている。
銀座もとじの店は、単なる店舗ではなく、文化に触れ、感じ、学ぶ“場”でありたい
──そんな思いが息づいている。
大島紬とは?
大島紬は、鹿児島・奄美大島で生まれた、泥染めと絣模様が特徴の高級絹織物です。島特有の鉄分を含む泥と植物染料で糸を染める「泥染め」により、深みのある黒褐色と独特の光沢が生まれます。絣模様は、染める前に糸を一本ずつ括り、緻密に柄を合わせて織り上げる高度な技法で、「世界一精緻な絣」と称されます。着るほどになじみ、耐久性にも優れ、“一生もの”のきものとして愛されていますが、職人の高齢化や後継者不足が進み、伝統継承のための取り組みも続けられています。
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「着物が嫌いだった少年」が、
世界で日本を再発見するまで泉二氏は高校時代まで、着物が嫌いだったという。父がどこへ行くにも着物姿で、思春期の彼にとってそれは“古くさい”ものに映った。家業にもあまり興味を示さず、むしろ洋服に惹かれていった。だが、18歳で渡英し、ロンドンでファッションを学ぶ中で、彼の中に劇的な変化が生まれる。
「民族衣装をテーマにした授業で、海外の学生たちが“着物”を選び、憧れの目で見ているのを見てハッとしたんです。自分は日本人なんだ、って。」
異国の地で初めて、自国の文化がどれほど尊敬されているかを知る。その瞬間、胸の奥に眠っていた日本人としての誇りが静かに芽生えた。洋服を学びに行った青年が、そこで“着物”という原点に出会い直す──それはまるで、長い旅を経て自分の故郷へ還るような感覚だったという。
ロンドンの街で風になびくコートのラインを見つめながら、「布の美しさ」「纏うという行為の意味」を考えるようになった。西洋のファッションが“デザインの文化”であるのに対し、着物には“心の文化”がある。形ではなく、そこに流れる所作や精神の美。その気づきこそが、後に“銀座もとじ二代目”として歩む原点となった。
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光沢の奇跡 ──
「プラチナボーイ」という挑戦銀座もとじを語る上で欠かせないのが、37年にわたる研究の末に誕生した純国産の蚕品種、「プラチナボーイ」である。雄の蚕だけから紡ぐこの糸は、プラチナのような気品ある輝きを放ち、光を受けるたびに表情を変える。この蚕品種の商品開発を手掛けて2026年で20周年を迎える。
「オスは産卵がないため栄養分を糸に吐き出すことができ、また吐き出す口が小さいため細く長い糸が作られます。しかし思いがけない天災に見舞われ押し潰されそうになったこともあります。」
まさに理想と信念の結晶。銀座もとじは、“日本の最高品質の絹”を目指し、養蚕農家と手を取り合って挑戦を続けた。
「プラチナボーイ」は単なる素材ではない。日本のものづくり精神、そして“究極の美”を追い求める人々の想いの象徴でもある。その光沢の奥には、職人たちの手の温もりと、自然への敬意が宿っている。こうした小さな革命が、伝統産業の未来を少しずつ変えていく。
プラチナボーイとは?
プラチナボーイは、日本で開発された純国産のオス蚕だけから生まれる新蚕品種で、37年にわたる研究の末に2007年に誕生しました。その糸は白く光沢があり、細くて強く、軽やかでしなやかな質感を持ち、染め上がりの発色が美しいのが特徴です。また、シワになりにくく扱いやすいことから、上質なきもの素材として高く評価されています。生産から製糸・製織・商品化までを一貫して行う「顔の見えるものづくり」を推進し、2015年には農林水産大臣賞や日本農林漁業振興会会長賞を受賞するなど、その品質と技術が国内外で認められています。
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地域貢献から文化を紡ぐ──
「柳染め」授業の28年銀座もとじは小売店であると同時に、地域との交流にも取り組んでいる。銀座の象徴・柳を使った「柳染め」の授業を、地元の小学校で28年間続けている。
「草木から命の色が生まれる。それを子どもたちが体験することで、命や自然への敬意を学んでほしい。」
子どもたちは、小学校に生えている柳を剪定し、それを煮出し、布を染める。普段身近にある柳から出てくる色に歓声を上げる。その瞬間、彼らは“草木にはそれぞれの色=命があること”を直感的に理解するのだ。
染め上がった小さなハンカチは、子どもたちにとっての最初の「伝統文化との接点」になる。その布を家に持ち帰り、家族に見せ、語り合う。その一枚が、やがて未来を染める色になる。地域との交流を通じて文化を伝える──それは商売を超えた、銀座もとじのもうひとつの使命である。
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男性着物という
“未踏の市場”を切り拓く2002年、銀座もとじは業界初の「男の着物専門店」をオープンした。当時、着物業界では前例のない挑戦だった。「絶対に成功しない」とまで言われたが、再来年で25周年を迎える。その挑戦は文化の流れを変えた。
「着物は女性のもの、という固定観念を変えたかった。男性にも“纏う喜び”を感じてほしかった。」
銀座もとじ 男のきもの店は、着物を“日常の装い”として再定義した。着ること自体が自己表現となり、心を整える時間となる。泉二氏が過去に手がけたコレクションでは、洋服の合理性や現代的なデザイン感覚を取り込みながらも、あくまで軸には“和の精神”を据えた。その結果生まれたのは、確かな手仕事が息づく”男の着物スタイル”だった。
今では、国内外のデザイナーやアーティストが銀座もとじを訪れ、インスピレーションを求めるという。一呉服店の挑戦が、時代の感性を動かし、着物文化に新しい息吹を吹き込んだ。
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伝統は「守るもの」ではなく
「進化するもの」泉二氏は、伝統工芸を”過去の遺産”としてではなく、”進化し続けるもの”と捉える。アーティストとのコラボレーションや展覧会「考工 code」などを通じ、着物の可能性を拡張し続けている。
「伝統とは、止まった時間ではなく、流れる時間の中で生きていくもの。次の時代に育てていく責任がある。」
現在、新しい蚕の商品開発に取り取り組んでおり、気候や土地の個性を織り込んだ打ち出しを考えている。それは単なる商品開発ではなく、「文化の未来」を形にする試みだ。泉二氏は言う。「伝統を守るという言葉には、どこか“止まる”印象がある。でも本当は、伝統は呼吸し、未来へ繋いでいくもの。」
銀座もとじは、過去を敬いながら、未来を恐れず進化し続けている。布を超えて、文化を、感性を、そして日本人の心そのものを紡ぐ。その歩みは静かだが、確かな輝きを放ちながら、今日も銀座から世界へと広がっている。
伝統の未来を、銀座から
「伝統を守るのではなく、伝統に未来を与える。」
銀座もとじの挑戦は、日本文化の“進化”そのものである。
着物を通じて「日本人であること」を誇りに思える瞬間を増やしていくこと。
それこそが、銀座もとじの使命であり、物語だ。
銀座もとじGINZA MOTOJI
1979年創業。着物を通じて「日本の美」を現代の感性へとつなぐ、銀座発の専門店。創業者・泉二弘明氏の志を受け継ぎ、二代目・泉二啓太氏のもと、伝統と革新を融合した新しい着物文化を発信している。
自社プロデュースの絹糸「プラチナボーイ」や、28年続く「柳染め」授業など、ものづくりと地域交流の両面から文化を未来へ紡ぐ。2002年には業界初の男の着物専門店を開設し、着物を日常のスタイルとして再定義した。